ゆうちゃんの家

メンサ・科学者・自閉症スペクトラム。心理学・薬学・医学・アイディア発想・エッセイ等(@UCHAM0410)

【エッセイ】自閉症スペクトラム、ADHDな私の生い立ちと克服法について

【概要】

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今回は私の生い立ちを通して、自閉症スペクトラム症(ASD)(旧アスペルガー症候群)・ADHD注意欠陥多動性障害)などの側面をお伝えできればと思い、記事を書くことにしました。

書式については色々と悩みました。

私自身「多分私のこういうところが自閉症スペクトラムっぽくて、こういうところはADHDが原因なんだろうなあ」と自覚することはあります。

ただ、私は精神科医でもなければ、発達障害の研究者でもありません。そのような私が上記のような記述を行うことは誤解を生むもとになりかねないと思い、敢えて本文中では個人的な診断は控えました(まとめでは少し触れています)。本文は主に、私のいままでの日々の回顧録的内容になっております。

 

今回の記事を通して伝えたいメッセージは、「たとえ発達障害があろうとも、平坦な人生を歩めるかも知れないこと」になります。

発達障害、とくに自閉症スペクトラムADHDな人はどんな人生をすごしてきたのだろう?という疑問に対しては多くの例があると思いますが、そのうちのほんの一例として捉えていただければ幸いです。

(本文読むのがめんどくさいよ〜って方は、「②私の回顧録」は読み飛ばしてもらっても構わないかもしれませんね笑。無駄に長くてすいません。)

 

 

【おことわり】

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本文はあくまで私の個人的な話になります。

自閉症スペクトラム症やADHDといった、いわゆる発達障害のタイプ・程度はさまざまで、100人の発達障害の人がいれば100通りの特徴があるといっても過言ではありませんよって、本文の内容はあくまで一例に過ぎず、自閉症スペクトラム症・ADHDの典型的特徴を表しているわけではないかもしれない、ということを念頭に読んでいただければ幸いです。

あと文字数が多くなり過ぎてしまうので、詳細は割愛して、かいつまんでの説明になることをお許しください。

(ちなみにはじめにいっておきますが、私の人生にはトラウマもなければ挫折もない平凡な人生です。波瀾万丈な人生には少し憧れますが、そういう内容は一切ありませんので悪しからずご了承ください笑)

 

 

【本文】

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①私のプロフィールについて

<学歴>

旧帝大卒業後、同大学の博士課程まで進み薬学博士(Ph.D.)を取得、専門は主に分子生物学です。現在は某製薬企業にて、分子生物学の研究者として創薬研究を行っています。カバーしている範囲は創薬シーズ探索〜薬効薬理試験と、一部新薬申請資料作成などになります。

学術文献(いわゆる英語の論文のこと)は多数ありますが、筆頭著者の文献のIF(インパクトファクター)は最大で約8、最低で約6程度になります(これはアカデミックの研究者の方々の業績に比べるとかなり劣りますが、あまり論文を書く機会のない企業の研究者としては特に可もなく不可もなくの平均的なレベルだと思います)。

 

<疾患>

診断済みのものは、自閉症スペクトラム症(旧アスペルガー症候群)、ADHD、機能性ディスペプシア、過敏性腸症候群寛解)、適応障害寛解)になります。そのほかの疾患につきましては、さまざまな検査(脳MRI、全身CT、胃カメラ大腸内視鏡、血液検査、エコー検査など)を行いましたが、病変はまったくなしになります。生まれつき胃腸が弱く、過去に何度か手術を受けています。

性格面ではスキゾイドパーソナリティの診断項目に全て該当しますが、こちらはあくまで自己診断。

 

<IQ団体>

所属している高IQ団体は、JAPAN MENSA(IQ130以上, sd=15)、METIQ(IQ156以上, sd=15)、HELLIQおよび4G(いずれもIQ160以上, sd=15)の4団体。

 

<自覚している現在の性格>

こだわりは非常に強く、自分なりの基準・意見を持たないと気が済まないタイプです。こだわりは多岐にわたりますが、例えば一例を挙げるとすると、正義感・規範意識が強いです。ここで言う私の正義感・規範意識とは道徳でもなく良心でもなく恥の概念でもありません(この国では他人の権利を侵害しない限りは、思想信条は自由です。道徳を重んじるのも思想の一つ、道徳を重んじないのも思想の一つだと思ってます。道徳は儒教の教えで言わば宗教ですし、孔子という特定個人の思想にすぎません。この国は思想信条は自由ですし、宗教国家ではなく法治国家なので特定宗教の思想の押しつけはアウトです)。

私の中の正義感・規範意識は、法律をはじめとする明文化されたルールに根拠をおいて形成されています(私のただの個人的な意見の押しつけは行いません。個人的な意見と割り切っています。相手には相手の人生があるのだから相手なりの答えがあって良いと思っています。一方で、明文化されていて且つお互いコミットメントしているはずのルールを破る人へは激しく論難するくせがあります)。合わない人・合わない状況を見るとかなりイライラしたりする傾向はありますが、相手が法律・お互い了解したルールを守っている限りは大抵許すように努力しています。

他人への興味はないので社交性や協調性とは無縁です。空気は読めません、吸うものです。メンタリストではないので人の気持ちは言葉にしてくれないと基本分かりません(というか分かろうとする気もありません)。論理性・合理性・生産性・合目的性・損得勘定でものを見るタイプで、メリットがなければ何百年続いた伝統であろうが廃止してしまえばいいのにというくらいメリット・デメリットを重視します。

研究を行っていると、周りの人から「独自性・柔軟性がある」と評価されることが多いですが、それは発想技法(200種類以上知られています)や水平思考を勉強したからであって、つまり後天的な能力であって、先天的には自分は頭が固い人間だと自覚しています。狭い世界でしか生きていけないタイプの人間なのでしょう。

人に対する関心は非常に薄く、その人の人生はその人が決めれば良いと思っていますので、他人の思想信条には(私と利害が衝突したり、ルールハックしない限りは)口出しはしません。なので自己防衛のため相手を論破しようとすることはありますが、基本的に議論好きではありません。一人でじっと考えるのが好きです。一生一人で過ごしたいです笑。友達いりません。騒音雑踏が苦手で満員電車は地獄です。山手線にはよほどのことがない限り乗りません。耳から入る情報を処理する能力はおそらく人よりも劣っていて、多くの人と雑談をしたりするのは苦手で下手です(頭がシャットダウンします)。一対一の会話ならぎりぎりできます。一方的に喋り続けるのは得意で大好きです。

 

②私の回顧録

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<幼少時代(〜3歳まで)>

当時のエピソードの詳細は、当たり前ですが、ほとんど憶えていないので一部は周りから聞いた内容になります。文字数が多くなってしまうのでかいつまんで記述します。

私は比較的裕福な家庭に生まれました。逆子で、生まれる直前はかなり危険な状態にありました。母は医者から「最悪の事態も覚悟してください」といわれたほどだったようです。幸いにも、母子ともに健康で私は無事に生まれ、すくすく育っていきました。

私はかなり愛されて育てられたそうです。父は勤めていましたが土日になると必ず遊んでくれましたし、家族一緒に車で遠くへ遊びに連れて行ってくれました。また母はその頃は専業主婦で、よく本を読み聞かせてくれました。また平日は一緒に街に出かけたり、遊園地に連れて行ってくれたり、とても可愛がられて育ったのを憶えています。今当時のことを思い出しながら書いてますが、心がほっこりしてきます。

このころの私はとても好奇心旺盛で、よく動く子だったそうで、ケガの絶えない子でした。また記憶力が非常によく、世界中の車の写真と名前を一度見て聞いただけで覚えたそうです(映像記憶能力というのでしょうか?残念なことにこの能力は小学校低学年になるころにはなくなってしまいました)。対人的性格としては非常に人見知りが激しく、泣き虫で、これに関しては今でもそうですが知らない人と接するのは当時から苦手だったようです。

幼稚園に入るまではほとんど友達はおらず、もっぱら父母と祖父母という家族の仲だけで元気良くすくすく育ちました。

 

<幼少時代(4〜6歳まで)>

幼稚園に入園しました。当時としてはとても広く、立派な幼稚園でした。3階建ての建物が4つほどあり、遊具が置いてある広場やスイミングスクール、図画工作用の棟、運動場2カ所、畑などがありました。私の小学校は700人くらいいたそうですが、それよりやや規模の小さい程度で、遊び回るには広すぎるほどの幼稚園でした。今でも鮮明に憶えています。

私はとにかくやんちゃで、わがままで、何の理由も前触れもなく他のお友達のほっぺを片っ端からツンツンしてまわったり、中庭に生えているバナナを勝手にとって食べたりなどはしゃぎ回っていました。とにかく落ち着きのない子で、みんなで席について先生の話を聞く場面でも前後左右の子にちょっかいをだしたりしてよく叱られる子でした。また幼稚園の入り口に大きなオウムがいるのですが、帰り間際に毎回檻の隙間から手を入れては噛まれ大泣きしたりもしました。このようにやんちゃで活発な一方、とても泣き虫で、粘土細工が上手くいかなかったり、転けたり、チューリップを枯らしてしまったり、お母さんのお迎えがちょっとでも遅くなったりするとすぐに泣き出してしまう子でもありました。あとかなりの正直ものなのか傲岸不遜なのかは分かりませんが、誰々ちゃんは大好き、誰々ちゃんは嫌い、とかはっきり言ってしまう子でした。

まとめると幼少期の私は、活発・わがまま・落ち着きがなくじっとしてるのが苦手な子でした。

 

<小学校時代>

簡単に言うと集団のリーダーでした。

常に二十人を超える友達がおり、今日は何をして遊ぶかは私が一方的に命じていました。逆らう子はいなかったです。私は自己中心的でわがままな性格で、決めたことを曲げない性格でしたが、幸いにも周りの友達はそんな私を受け入れてくれ、楽しく過ごしました。そんなわがままな一方で、身体に障害を抱えた子や知的障害を持つクラスメートに対しても、私は積極的に自分のグループや遊びに誘っていました。遠足の時の遊び時間や昼ご飯のときに孤立している子がいれば、私は自分のグループに必ず誘いました。学級委員をやっていたのも原因なのでしょう、「私が声をかけなきゃ!」「放ってはおけない!」と思いました。普段はあまり他人に興味を示さないのですが、義務があるなら全力で果たします。

学級委員や応援団、生徒会(美化委員?園芸委員だったかな?)なども何度か行いました。とにかく何でも挑戦してみる子でした。夏休みの自由研究は2年連続で市から表彰され、博物館みたいなところに飾られました。水泳では市の大会への出場権をいただけるほど上達しました(ただ好きでやっているだけで、人と競うことにはあまり興味はなかったので出場は辞退しました)。

一方で、この衝動的に「なんでも挑戦してみる」性格は色々危険を招きました。学校に行く途中、近道をしたくて川を飛び越えてみたり(もし落ちたら5mは落下していたでしょう。実際落下して身動きとれなくなって近所の知らないおじさんに助けてもらったことがあります。知らないおじさん、あのときはありがとう)、急な坂道を自転車で猛スピードなのにブレーキもかけずハンドルに手もかけないで駆け下り、バランスを崩して、ちょうど交差点のど真ん中で宙に放り出されるように飛んでいったり(車が来ていたら死んでました笑)、走り回って車にひかれそうになったことは幾度となくあり、山登りで蛇を見つけてはぶんぶん振り回したり...。通知表には「落ち着きがない」と何度書かれたことか笑。

とにかく私の人生の中でもっともキラキラ輝いていて、何をやっても楽しく、新しく、素晴らしいワクワクとドキドキの毎日でした。

 

<中学時代>

「天然ちゃん」「変わってる」が私の代名詞でした。

中一時代はなぜそう言われるのかが分からなかったのですが、しばらく時が経って、なんとなく周りとは違うのかな?と意識し始めました。

学校・塾の成績は抜群に良かったです。たまたま芸術の授業で適当に作った絵画とエッチング(金属の板に傷をつけるような形で絵を描いていきます。版画みたいなもの)の作品は賞をとり、美術館に飾られました。それを聞いた時は嬉しかったのですが、なんとなく興味がなくて見に行くことはありませんでした。

このころ、なんとなく自分は「勉強は抜群に出来るけど頭は良くない子」なんだろうなとどこかで思っていました。理由は当時は分からなかったのですが、今思えば対人面で色々と問題を抱えていたせいだと思います。コミュニケーションがあまりにも下手なので自分は頭が悪いのでは?という感じです。

友達は一人もいませんでした(ストーカーは約2名ほどいましたが難なく撃退しましたので省略します笑)。人に興味が持てなくなりました。別にクラスの子と仲が悪いわけではないのですが、周りに関心が持てず、かといって打ち込めるほどやりたいことがあるわけでもないという感じで、いつも頭がもやもやしたような感覚でした。代わりに読書にのめり込むようになりました。昼休みも、たまにクラスの子と遊ぶことはありましたが、ほとんどの時間を図書室で過ごしました。引きこもった形の読書に傾倒する習慣は、もともとの「変わった子」という性格の偏りにさらに拍車をかけたと思います。

この時代に、後の私に影響を与えた人がいました。その人は塾の講師で、抜群に教え方、トークへの引き込み方、そして何より自信を持って話をすることが上手かったのです。カッコいいな、と思いました。私は人の特徴をコピーするのがとても上手い方です。これは何故だか分かりませんが、ちょうど人への興味を失い友達がいらなくなったころと、このコピーする能力(?)が発動した時期は重なっています。私はさっそくその塾の講師の先生の特徴を必死でコピーしました。そのおかげで、いままでまったく人に関心を持たなかった私が、ちょっとした面白い話を周りの子にしたり、勉強をクラスの子に分かりやすく教えられるようになり、その結果周りから頼られるようになりました。「変わった子」「変な子」が「ユニークな子」「面白い子」に変身しました。人への興味は相変わらずなく、私はただ手に入れた他人の特徴をおもちゃにして楽しんでいただけなのですが、私の対人環境は激変しました。クラス内にも友達ができ、クラス外にも(私はその人のことは知らないけど)相手は私のことを知っているみたいな状況にまでなりました。異性と初めて真剣にお付き合いしたのもこの頃です(高1のときに自然消滅しましたけどね、はははは笑)。そんなこんなで中三から中学卒業くらいまでは普通の子と同じように楽しく過ごしました

高校入試も偏差値は70程度はあったので、そこそこの高校には入学できました(ちなみに第一志望の高校はずっとA判定だったのに落ちちゃいました笑。でもあまり高校にはこだわっていなかったので気にもしませんでしたが)。

 

<高校時代>

相変わらず人には興味がないので友達いない青春時代を過ごしていました。孤立していたといってもいいでしょう

実は高校一年の頃、同じ中学校出身の子が自殺をしてしまうという事件が起こりました。その子の友達は泣きじゃくって、私に「xxちゃんが自殺したんだって...」と言ってきました。私は全く何も感じませんでした。ただ「ああ...そう...」とだけ答えました。今思えば寒気がするほど冷たい人間だなとは思いますが、当時は言葉は悪いですが「ただの出来事」としか感じられませんでした。他人への興味がない、持てないのです。そんなふうに、私は対人面でも、そして恐らく精神面でもなんらかの問題を抱えていることには薄々気付いていましたし、その結果孤独になったのでしょうが、その孤独を苦痛に感じたことは一度もなく、ただひたすら黙々とスキマ時間に読書をして楽しんでいました。本屋や図書館に行くのが楽しくてしょうがなかったです。本当に孤独が大好きな人でした。

学校の勉強についていくことは全く苦にならず、そのまま成績最上位の特別クラスに入れました。

読書でハマっていた分野は多岐にわたりますが、特に推理小説武経七書です。推理小説はかならず分かるまで推理しましたし、武経七書は本がバラバラになるまで読みました。この読書を通じて、自分なりの考え方、アイディアの出し方、発想法をノートにまとめる作業をはじめました。この習慣は今でも続いています。自分独自に作ったアイディア発想法や問題解決法・仮説設定法・思考実験などは今現在300を超えています。この習慣こそが今の私の研究者としての独自性の核になっていると思います。思考することの楽しさ、多数の論理を組み合わせただけで思いもよらない結果や予測が出来ることの感動、思考実験を行うことでもたらされる想像力のすばらしさを学びました。

だんだん私の興味は思索すること自体に傾いていき、学校の勉強はそっちのけになっていきました。日に1時間勉強することなんて滅多になくなりました、というか嫌いなこと、興味がないことは全く出来ない子なのです。研究者になることを目標にしたのはこのころでしょうか?遺伝学や分子生物学などのバイオ系の本(といっても文庫本程度の簡単な本)も読むようになりました。ああ、やっぱり進むべきはこの道だなと確信を強めました。とは言っても世界最高峰の舞台で研究をやりたいとかは思ってなかったので(野心とは無縁の性格です)、東大に行くのは考えてなかったです。そもそも東大に受かるかどうかは五分五分の成績でしたし、東大入れるような天才たちと大学入学後も競い合うなんて大変ですし、国立落ちて浪人するつもりはないし、どこかの旧帝大でも入れればいいやくらいの考えでした(あとから思ったのは、もうちょっと大学ごとにどんな研究をやっているかを調べてから選んでも良かったかなとは思いましたが)。というわけで、当時の成績でほぼ100%受かる、とある旧帝大の薬学部に入学しました。

 

<大学時代>

いままでの根暗でコミュ障の私とは打って変わり、いったい何を思ったのか、「キャンパスライフを満喫しなければ!」という柄にもないことを思い立ち、入学初日に私の得意のプレゼン能力(会話のキャッチボールは苦手ですが、一方的に相手に話しかける能力は高いです笑)を発動させ、一日にして友達を7人作りました。この時、たぶん久しぶりに「人と会話がまあまあ成立するな」と思いました。まあ似たような成績で同じ大学に入ったんだから、考え方も似ていたのでしょう。私は相変わらずのコミュ障で自己中心的でワガママ人間でしたが、親切な友達が色々と世話をしてくれ、徹夜でボーリングにカラオケにショッピングに食べ歩きに遊びほうける一般的な大学生活(?)を満喫していました。楽しかったですね、キャンパスライフ。バイトは塾講師をし、がんばる子供達を熱心に教えました(同年代の人のことは私にとってどうでもいいですが、なぜか若い人たちは必死に応援したくなる性格なんです)。

4年生になり、希望していた研究室に配属され、研究をはじめました。研究は面白いですね。あとあまり人と関わらず一人で出来る点も孤独が大好きな私には合っていると思いました。徹夜で夢中で実験することも多々ありました。レベルの高い研究に関する議論は面白く、私も初心者ながらも果敢に挑戦し、楽しみました。

 

...とここであることに気がつきました。というより、たぶん私みたいなコミュ障が急に会話しだしたものだから、今になってようやく気付いた(というか体感した)のです。いわゆる空気が読めないのです。

実際の話をしましょう。ある日の出来事です。

研究報告のプレゼンを先輩(博士課程の人)がやられていて、それに対して教授がかなりの剣幕で噛み付いたのです。その教授はこう言いました。

「そんなことはサルでも出来る!」

アメリカでは博士は飛ばせるぞ!(要するにほかの大学に移ってもらうこと)」

それに対して私は横からこう言いました。

「サルがこんな研究できるならサルの研究をしましょうよ。サルにこんなにも高い知能をもつことが証明できれば素晴らしい発見になると思います。」

「そんなに博士をえり好みして研究したいなら日本じゃなくアメリカに移ればいいんじゃないですか?なんで日本で教授してるんですか?」

言った本人(私)にはまったく悪気はありません。真っ正直にそう思っての発言でした。いや、だって教授の話を要約すると「教授はサルでも博士レベルの研究が出来ると言っている」「教授は博士をえり好みしたいと思っている。それは日本では不可能であるが、アメリカでは可能である」と言っているわけです。よって「教授はサルの研究をアメリカですれば、いまより幸せに研究できる」だろうなと思って、親切心といってもいいくらいの感じで言いました。反抗する気も挑戦する気もケンカを売るつもりもなくそう言いました。

しかし、その場は凍り付きました。幸いにも私の発言に関してはあやふやな感じでおさまり(たぶんまだ大学4年生ということで大目に見てもらえたのでしょう)、先輩の発表は無事(?)終わりました。発表会のあとは研究室をみんなで掃除して、だいたいどこかに遊びにいくのですが、口々に「あれヤバくね?」「え、大丈夫?そういうタイプの人なの?」と言われました。そのときはよく分かりませんでしたが、言ってはいけないかもしれないことを言ったということを学びました笑。

もともと空気読めない気質はあったのでしょうが、中学高校時代と長きにわたってあまり人とコミュニケーションをとらなかったため、空気読めない気質は表面化しなくて本人すら気付かないでいたのでしょうね。空気を読むっていまだに難しいです。異性とお付き合いしても数ヶ月で捨てられることが何度も続きましたが、これは他人への興味のなさとコミュニケーション形態が奇異であることが原因でしょう。私はあまりくよくよ悩んだり後悔したりしない性格なんですが、さすがに当時は悩んだのを憶えています。

研究は順調に進み、機能未知タンパク質とその新規遺伝子の発見、およびその遺伝子・タンパク質の機能解析を遺伝学・生化学・細胞生物学的手法で進め、無事に博士号を取得することが出来ました。

 

<社会人時代>

無事、希望していた製薬系研究職につき、研究を行っています。相変わらず友達はいませんが。ふとこの頃気付いたのですが、私は昔の知り合いや後輩とは縁を切る癖があります(電話がかかってきても出ないし、メールは無視するし、LINE登録は拒否します。何度も言いますが悪気があるわけではなく、あまり他人に興味が持てないのです)。高校時代は友達は本当にいなかったのですが、中学や大学では少数ではありましたがいたのです。でもなぜかあまり過去の交友関係を引きずりたくないという思いがあります。一人が本当に好きな人なんでしょうね。

大学時代は一日の時間が不規則で、昼頃大学に行って夜遅くまで研究するというスタイルでしたが、社会人になると当然そうはいきません。早寝早起きの習慣を身につけました。

東京の朝のラッシュ時はかなりキツいですね!私はパーソナルスペースを広くとるタイプで、スキンシップもだめで、人ごみの喧噪・音などに対してとても苦手意識が強いです。乗り物酔いしやすく、光の明滅に過敏な体質なのです。東京の朝は私にとってはなかなか厳しい環境ではありますが、こればっかりは我慢しなければ仕方がありません。

大学の研究に比べて、企業での研究はイージーでした。そのおかげで時間的余裕もあり、研究に関する思索に充てる時間は増え有意義な生活を送っています。コミュニケーション能力に関しては相変わらず偏り・操作的な部分はありますし、閉鎖的な性格ではありますが、研究や科学に関する話は好きなのでディスカッションしていて困ることは少なかったです。前述のとおり私は狭い世界でしか生きられない人なのは変わりませんが、研究という世界は、そんな私の性格的にも能力的にも合う職業のようでした。

私は生まれつき胃腸が弱く、一時期自宅で療養していましたが、現在は快方に向かい復帰することもでき、現在に至っています。

 

 

【まとめ】

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前述のとおり、私はこだわりが強く、あまり融通が効かず、他人に興味が持てず、コミュニケーション能力に偏りがあり、落ち着きのない性格です。すべての自閉症スペクトラム症・ADHDのかたがそうだとは思いませんが、似たような性格特性・行動特性で悩んでいる方もいらっしゃると思います。

私は運が良かったのでしょうね。いつの時代も私を受け入れてくれる人がいつも少数はいました。時折、リスペクトできる人にも出会えました。特にリスペクトできる人にことあるごとに出会えて、その度に少しずつその人の特徴を学習できたことが、私のような変な人が比較的平凡な生活を送れている大きな理由になっているように感じます

また研究職という、一人もしくは少数の人で行える仕事に就いているという点も、私のコミュニケーションの偏りという欠点が発動しにくい環境なのだと思います。

さらに家庭環境にも恵まれました。こんな出来損ないの私に対して常に味方であり続け、支えてくれ、最大の理解者となってくれている家族には本当に感謝しています(みんな仲良くしてくれてありがとう)

私は自閉症スペクトラム症・ADHDに関しては治療を行っていません。対処療法としては薬物療法、治療方法としてはTMS治療などがありますが、自分の性格を変えてしまうかもしれないという怖さがあるからです。

人間関係に悩む発達障害の人に個人的なアドバイスをするとしたら、「リスペクトできるメンターのような人を見つけ、その人の特徴を模倣する」という点につきます。あなたがリスペクトしている人物は、おそらく他の人からもリスペクトされているでしょう。そのリスペクトしている人物を出来るだけ模倣することで、あなたも次第に周囲からリスペクトされる人物に近づいていけることでしょう。実際に私はこれを実践し、中学時代は人間関係が劇的に改善し、社会人時代でも大きな問題もなく過ごせています。

発達障害は個性であり、「個性と社会の摩擦が引き起こす問題」です。自分を変えるか、環境を変えるかは人それぞれやり方があって良いと思います。私の場合は、「できるところから少しずつ自分を変えていく」ということを行いました。いきなり変わるのは無理です。それに好きでもない自分になろうとする努力は続きません。変わるためには自分のペースで無理のない範囲で「少しずつ」変わること、好きになれる「メンター」を見つけそれを目指して変わっていくことです。

 

長い文章になってしまい恐縮ではありますが、自閉症スペクトラムADHDの方々の参考になれれば幸いです。

乱文ご容赦願います。

 

最後に、私のようなどうしようもない出来損ないを受け入れてくださった全ての人に感謝いたします。

そして、こんな頑固で偏屈な私を他の誰よりも受け入れ、理解し、育て、いたわり続けてくれる家族・親戚には本当に感謝の言葉しかありません。

ほんとうにありがとう!!!

 

 

ちなみにこの記事でちょうど100記事目になります!

これからも皆様、どうぞよろしくお願いいたします!

 

 

 

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